
2年ぶりに帰国して、バカンス半分、仕事半分というスタンスでゆったりと生活しているツヨシです。念願の新しいデジカメも購入し、嬉々として東京をウロチョロしながら美しい東京を観光、観察しています。
僕はイタリアに住み始めてから多少大雑把(良くいえばおおらか)になり、小さなこと気にしないようになりました。よく友達に「イタリア人みたいになってきた」と揶揄されますが、日本滞在中の2か月は、その「イタリアナイズ」された僕からみた現代日本、イマドキの日本人について感想を書いてみたいと思います。
「日本は外国人からみたら、こう映っているんだ」と受け取ってもらい、考えるきっかけになってもらえればと嬉しいです。
第一弾は「電車の中の日本人」です。
昨日の夜、最終電車で帰宅していた時のこと、ほぼ満員のメトロ南北線のつり革につかまっていると斜め前にひとりの70歳くらいの男性が乗ってきました。彼は腕をあげるのが辛いらしく、つり革につかまれず、電車が揺れるたびにフラフラしてしまいます。いちどなどは座っている20代と思われるサラリーマンの膝の上に大きくもたれかかってしまいました。
それでもそのスーツ男性を含め、近くに座っている乗客たちは無言でケータイをいじっていたり、DSをピコピコしています。再び大きな揺れがあったとき、そのひとは床にバッタリと大きく倒れてしまいました。僕はあわてて声をかけ、脇をかかえて起こしてあげましたが、彼は「大丈夫です、大丈夫です」と恐縮するばかり・・・。でも他の人たちは目の前に、自分の足もとに人が倒れても彼らは「だいじょうぶか?」という不振げな顔を向けるものの、声をかけるわけでもなく、席をかわろうともしません。
先週の夜テレビで、ひとりの知識人らしき人が「ほんとうの紳士は風呂場でオシッコをしないらしい。これは人が見ていないところでも行儀よくするということなんだ」と偉そうに語っていました。僕はその意見を聞いて「間抜けだなぁ〜」と飽きれたんだけど、紳士が「教養のある礼儀をわきまえた人間」と定義するのであれば、それは「人前で手を差し伸べられる人間」であるべきだと思うのです。人が見てないところではなんでもできるけど、人が見ているところで自分のもっている優しさを披露することはとても貴重で尊いものだと思うのです。
その前にも同じようなことがありました。東急東横線に乗っていると、法事帰りと思われるお年寄り数人が乗ってきました。渋谷で出発待ちをしている列車に座っている人たちはみんな席を確保することに夢中で、意地でも自分の席は譲らないという姿勢。どれだけ遠くに行くかと思えばみんな3駅目の自由が丘で降りていくのです。
僕の回りの友達はみな思いやりがあり、日本人は情に厚いと思っていたのだけれども、最近は人が変わってしまったのかと心配になってきました。密封された車内では人間が変わってしまうのか、日々のストレスが人の心をさもしくするのか・・・30歳を過ぎて「大人」から「分別のある大人」になる時によく考えるべきだとヒシヒシ感じたのです。仕事で人と接するとき、後輩にものを教えるとき、人生において人と関わる全ての場面において、その人の優しさを表現する能力は知識よりも重要だと思う今日このごろです。ハイ。
posted by Tsuyoshi at 22:18
|
Comment(10)
|
TrackBack(0)
|
イタリアから見た日本